光あふれて死ねばいいのに08 ☆  あたしは吉住真理の部屋に通された。部屋は持ち主の内面を如実に反映していた。壁と天井が無数のポスター で覆われている。それらすべてに同じ人物の顔が映っている。他でもない、我らがアイドル「7e」だ。  スクリーンセーバーも7eのプロモ。CDラックも7e尽くし。写真集や萌えキャラ風にデフォルメされたフィギュ アまである。吉住のメンタルはどっぷりと7eの世界に浸かっていた。  異常な執着ぶりが見て取れた。正気からかけ離れた心のあり方を見て、普通なら気持ち悪いと思うところなの かも知れない。吉住のおばさんも「あの子は本当に7eが好きだったんですよ」と見れば分かることを言う。恥ず かしそうだ。けどあたしがこの部屋を見て抱いた感情は軽蔑ではない。嫉妬だった。これがアイドルのパワーな んだ。七重が手にしているものなんだ。ただ羨ましい。ただ妬ましい。あたしも同じものが欲しい。いや、七重 以上のものが欲しい。みんなあたしに狂ってしまえばいいと思う。吉住みたいに存分に気持ち悪くなればいいと 思う。あたしは満たされるだろう。  机の上に封筒があった。遺書だ。吉住母の許可を得て読ませてもらう。封筒を手にとってあたしは鼻じろんだ 。表にはこう書かれていた。 ―――― 「吐き気がするほど正しい世界へ」 ――――  のけぞりたくなった。ずいぶんと格好良く出ましたね吉住さん。たかが命ひとつを捨てたぐらいで世界七十億 人に物申すつもりですか。……いや、テレビのニュースくらいには出れるのだろうか? 出れるのかも知れない 。自殺で出演なんて真似したくもないけど。ともあれ、あたしは封筒から便せんを取り出した。広げる。世界に 対して宛てられた手紙なのだから、あたしにも読む権利はあるはずだ。 ――――  幼いころから、ずっと不思議に思っていました。  人はなぜ、殺してはいけないのだろうと。  人はなぜ、死んではいけないのだろうと。  納得のいく理由が説明されたことはありませんでした。  大人たちはみな、口々に愚かな理由をつけてそれは絶対にいけないことなのだと言うばかりでした。  けれどこれほど暴力的なことがありましょうか。  これほど横暴で残酷なことがありましょうか。  生きるに値しない人生を押しつけられた人間の、最後の逃げ場を奪う権利が、いったい誰にありましょうか。  大人たちは自らの偽善に気づいていないのでしょうか。  いや、そんなことはありません。大人たちもまた、かつては世に疑問を持った子供だったのだから。それでも 年月は人を蝕むのです。ぐずぐずと腐っていくのです。ぼろぼろに朽ちていくのです。  そうして死を、禁忌の森の中に隠してしまうのです。哀れな道連れをこの世につなぎ止めるために。この世か ら弱者を減らさないために。  それが視えたから兎は、世界に期待するのをやめました。無意味を追いかけることをやめました。兎は心を閉 じることにしたのです。自らの紅い夢を目の中に隠すことにしたのです。自分が腐ってしまう前に。醜く朽ちて しまう前に。  月の明るい静かな夜に、兎は泣きました。誰もいない部屋で。自分すらもいない部屋で。  しかし兎は天魔を見つけました。  天魔は空から降りてきました。天魔は黒く輝いていました。それはこの世のものでは有り得ないほど醜く、そ して美しかったのです。天魔はささやきました。その声は夜を蹂躙し、地上の凶々しい光を払い、空に穴を開け ました。  大きな大きな、穴です。天獄に通じる穴です。二重螺旋の階段を昇れば誰でもたどり着けてしまう。天獄は愚 者で溢れ返ってしまうでしょうか? その心配はありません。愚者には見えないことでしょう。開かれた可能性 に気づくことなく、空を見上げもしないのでしょう。そうして一生を地上を這って暮らすのです。  兎は階段を昇りました。  甘美なる偽善、単純すぎる贖罪、機械的な痛み、眠れない免罪符、麻薬的な偽り……兎はすべて捨てることに したのです。  道を示してくれた天魔に、感謝を。 ――――  読み終えた。あたしは遺書を封筒にしまった。  世の中には「死者を悪く言ってはならない」「仏様は敬え」と主張する人間がいる。意味が分からない。そん なことを偉そうに主張する奴らにはこの遺書を見せつけてやりたい。  笑うなというのか。これを。  この瞬間あたしは窮地に陥った。何しろ吉住母がそばにいるのだ。あたしは手紙を机に置き、手でとっさに口 を隠した。顔を伏せる。肩が震える。どうしようもなく痙攣する。あたしは泣いているように見えるだろうか。 見えてもらいたい。そうでないと困る。あたしは失礼だが、失礼と思われるのは困る。  あたしは爆笑を押し殺しながら考えていた。吉住真理を殺したのはあたしではない。流行り病だ。心を蝕む凶 悪な病が彼女を殺した。  恐ろしい病だ。それに実体はなく目にも見えないが、この社会に確かに潜み、感染の機会を伺っている。それ に取り憑かれるのは心の弱い奴だ。特に中学や高校のクラスで人格を認められない蛆虫共。奴らはアニメだのゲ ームだの自壊系ロックバンドだのに心酔して、頭の中で心地よい自己イメージを膨れ上がらせていく。そして現 実のみじめな自分を認めたくないあまり、その虚実の絶望的なギャップを、いつしか認識するのをやめる。  そうするとどうなるか。  去年もいた。七重に告白メールを送った勘違い馬鹿野郎が。増村という雑魚だ。増村はそれがかっこいいと思 ったのか、アニメのキャラクターになりきったセリフをメールの文面に盛り込んできた。高校生にもなってだ。 当然七重はそれをみんなに回す。爆笑の餌食だ。彼の罪は笑い者になるだけでは拭われなかった。次の日から増 村は迫害された。いじめの標的になった。つるんでいた他のオタク連中からもシカトされ関係を切られたらしい 。一週間で学校に来なくなった。あたしたちはそれ以上の追い打ちはかけず、小さな祭りはお開きになった。あ れは楽しかったな。  彼らは言う。「自分には霊感がある」「他人の視線を感じられる」「俺は一人で生きていける」「誰もあたし を理解できない」……その病は心を狂わせる。そして人を奇行に駆り立てる。この病をこじらせて、吉住は死に まで至ってしまったのだ。  吉住は七重の感性に汚染されていた。遺書の内容にも七重からの影響がもろに見てとれた。ボキャブラリーの 半分以上が七重の歌詞から来たものだ。しかし劣化は著しい。七重の歌詞は狂っているが、それは人の心を鷲掴 みにする狂い方だ。退屈な常識からの飛躍だ。輝いている。吉住の遺書にそんな輝きは無い。ただのでたらめな エコーだ。  あたしはほっとした。吉住を殺したのはあたしじゃない。強いて言うなら七重だろう。七重の影響力が吉住真 理を殺した。  それだけ分かればいい。用が済めば長居は無用だ。あたしは帰ることにした。吉住母に礼を言った。 「今日はありがとうございました。真理さんの気持ちが分かった気がします」  あたしは控えめに言った。本当は「分かった気がした」どころではなく底まで読み切れていた。吉住は人とし て底が浅すぎる。 「こちらこそありがとうね。あの子の複雑な心境が、ちょっとでも分かってもらえたのなら嬉しいです」  複雑だって! あたしは頭を下げるついでに、また吹き出しそうになるのを隠す。吉住の愚かさはこの人から 受け継がれたのかも知れないな。愚かな母親と愚かな娘。それでも本人たちにとっては大切な家庭があったのだ ろう。馬鹿だけの世界に生きる者は、自分が馬鹿だと認識することができない。死ぬまで。 「突然お邪魔してすみませんでした。失礼します」 「いいえとんでもない。また、思うことがあればいらしてくださいね。お茶菓子くらいはお出ししますので」  あたしは答えず、笑顔だけを丁寧に作った。まあ二度と来ないだろう。 ☆ <坂井終司>  吉住真理が自殺した。それは唐突に告げられた。  担任が職員会議に行って一限が自習になっても、一組は静まり返ったままだった。うつむいて泣いている女子 もいた。なぜ泣くのか。たぶん死というものからネガティヴなイメージしか受け止められないからだと思う。頭 が悪いな。ぼくは愚考に汚染されないように、教室の雑音を頭から閉め出した。  ぼくも死のうかなと思う。「毎日がつらい」「生きていることに意味が無い」この二つの条件を満たしている からだ。  毎日がつらい。勉強とか、体育とか、そもそも学校に通うこと自体とか、やりたくないことを毎日やらされて いる。  生きていることに意味は無い。ぼくは生きる意味を毎日考えていたけど、どうしても客観的な根拠を持つ意味 は存在しないとしか思えなかった。この世のどんなものにも意味は無い。仮に神さまというのがいてそれが生き ることの意味を認めていたとしても、その神さまの存在に意味が無い。その神さまの意味を認める大神さまがい たとしても、その大神さまに意味が無い。この世に意味のあることなんて無い。だから生きていることにも意味 は無い。これは覆りようの無い、どこまでも正しい結論だろう。みんなどうして気づかないのか。  たとえ毎日がつらくても生きていることに意味があれば、それを心に刻んで耐えて頑張ってゆける。逆に生き ている意味がなくても、毎日が楽しければなんとなくで生きていける。  でもぼくには両方ない。毎日が楽しい人もいるのだろうけど(黒野宇多とか)、ぼくはまったく楽しくない。 であれば死んだ方がいい。ぼくが死んだら黒野は泣くだろうか。そしたら溜飲も下がるのにな。それはとても魅 力的なプランに思える。  どうやって死ぬのが楽だろうか? きっと飛ぶのが確実で簡単だろう。シミュレーションをしよう。ぼくは高 いビルの屋上に立っている。ジャンプ。落ちる。ゴチン。頭が割れる。脳が漏れる。即死。結果:百パーセント 死ねる。睡眠薬なんかで死に損ねたという話はよく聞くし、やっぱり飛ぶのが一番良さそうだ。  でも、いま死んだら吉住と同列に扱われてしまいそうだ。それは嬉しくない。ぼくはぼくだ。吉住とは違う。 ぼくにはぼくの動機がある。吉住は……ああ、そういえばぼくらは吉住が何で死んだのかをまだ知らない。何で 死んだんだろう。案外ぼくと同じような理由だったりするのだろうか。いや、生きることの無意味さに気づける ほど頭がいい人間なんてそうはいないだろう。吉住はたぶん嫌なことがあって死んだんだ。安直に。  そういえば昨日、川本里沙が吉住に「もう話しかけるな」とか言っていたのが聞こえたな。じゃあ吉住はそれ にショックを受けて死んだのかも知れない。馬鹿だな。友達関係なんてものに意味があると思うから、それが無 くなっただけで死ぬほど絶望する羽目になる。やっぱり友達なんて求めない方がいいんだ。ぼくは正解している 。 ☆ <黒野宇多>  担任から吉住真理の死を告げられたとき、すぐにでも走り出したくなったのをわたしはこらえた。事態はどう 見ても異常だった。どこに問題があり、何をすればいいかも明らかだ。だけどわたしは思いとどまり、浮いた腰 を椅子に落とす。目を閉じる。口を閉じる。うつむく。すべての神経を自分の内側に向けて静寂の中に沈める。 座して黙祷する。意識は底まで降り着いて、淡い光が散らばった。  いつもわたしは、目的に向かうための最善で最大効率の方法を模索し続けている。あらゆる時間で熟考を続け て、答えが定まれば即座に行動に移る。だけどこの大原則から外れる例外もある。知人の死はそのひとつだ。今 まで存在していたものは明日も存在している……人の心はそんな期待を前提にして回っている。隣人の死という ものは、そこに大きな穴を空けてしまう。バランスを瓦解させる。本人がどれだけ否定しても。命というものが 、莫大な維持コストを支払ってでも守る価値があると高く評価される由縁だ。  吉住真理。口数の少ない静かな子だった。彼女と話したことはほとんどない。直接に言葉を聞いたのもわたし が話しかけた二度だけだ。 ☆  一度目は六月の雨の日。中休み。彼女は教室の隅で本を読んでいた。中身を隠すようにして。表紙にもカバー をかけていた。  彼女のことはまだよく知らなかった。直に接しなければその人は分からない。すべてを把握するのはわたしの 習性だ。わたしは彼女に近づいた。彼女は夢中で気づかない。斜め後ろから本の中身が見えた。鮮明なカラーで 貝の写真が載っている。彼女は貝の本を読んでいた。生態や漁業との関係が説明されている。写真付きの雑学本 のようだった。  貝。  彼女は自分の殻に閉じこもっているか? 反射的なその連想を、わたしはすぐに否定した。違う。そんな安直 な類推で人間性は計れない。彼女は口数が少ないながらも友達は作っている。終司くんとは違う。 ☆ つづく