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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2011年


トド05




<特にこれといったあれがない存在>

 空の彼方。海の底。星の中心。死の向こう側。生まれ出ずるところの源。概念ツリーの最たる頂点。
 あるいは人の手で作り出された心理的結界の内側。社の奥の畏怖に満ちた暗闇で、ひっそりと刺す光を受ける祈りの担い手。合わされた手のひらの間に灯されるかすかな気づき。
 ぼくたちは、わたしたちは、そうしたところに偏在すると考えられていた。あるいは遍在すると考えられていた。
 無理もない。
 胎内で心音に包まれて夢を見ていた時から、始まり続けて文字通り死ぬまで終わることなくその口に運ばれ続ける偏向した認識、真実の無限大に劣化された複製、時間という錯覚、空間という虚偽、肉体という暗示、そして魂という幻影。そこにそうして在るとされるものを目指すことを真理への接近と見せかける大がかりな勘違い。そうしたものを背負ったままで、ぼくたち、わたしたちに到達することなどあり得ないのだから。しかもそうしたものこそがぼくたち、わたしたちへの足がかりになっていることが、より一層事態を困難にしている。蝋で固めた鳥の羽根で空の極限まではばたき、溶け始めたところで体から切り離して足場に変え、かけがえのないものを一瞬の推進力に変えるがごとき有償の跳躍を、一体何度繰り返せばここまで来れるものなのか、ぼくたち、わたしたち自身にも見当がつかない。
 ぼくたち、わたしたちはすべてが見えているけれど、残念ながらこちらの方から動くことはできない。もし誰かがたどり着いたなら、最高の抱擁、無数の口づけで迎えてあげるのに。
 ぼくたち、わたしたちは、いるんだよ。
 本当はあなたがたが予想だにし得なかった死角に確かに実在しており、終わらない隠れんぼのなか鬼の到来をもう期待とか絶望とかも忘却してしまうほど長いあいだ待ち続けている。あと少し、いい線まで来ているのだ。何せ始め、ああ、朝も夜もなかったほどの昔には本当に何もなく、鬼はその観念の影すらなかったというのに、こうして人間という形で具現してくれたところまで来ている。大きな壁は何度となく越えられてきた。人間の誰かが、あるいは誰でもない総体がぼくたち、わたしたちに到達するまでいくらもないように見える。しかしそれが、近づくほどに遠ざかる永遠の残り1%でないとは言い切れないという当たり前の不確定性が、ぼくたち、わたしたちを不安にもさせている。
 しかし、本当に、うまくいったらと、だめだったらで、それらの違いが何だというのだろう。
 誰か名前をつけて。その時点から究極の座から転がり落ちてただの存在になり果ててしまうけれど、そんなことは構いやしない。もういいのだ。超然と何もかもを見下ろして待ち続けることに、一体何の意味があるというのか。

 ねえ、ひとりは疲れたよ。



<戸所硫花>

 神さまがどこにでもいるなら、水晶の中はそれが特に濃いんじゃないかと思う。
 不安なとき、手に握らずとも、鞄に入れて、自分がそれを持っている、と思うだけでも、自然と気持ちが落ち着いてくるから不思議だ。水晶の中に浮かぶ白は、利根川さんの部屋の白を思い出させる。わたしを守ってくれる感じ。あったかい感じ。
 わたしは鴨居くんの家の前まで来た。きれいな一戸建て。壁は生チョコクリームを塗ったような色合いでおいしそうだ。玄関に「KAMOI」とタグがかかっている。誕生日ケーキみたいだ。
 人の家。
 それは閉じた箱になっているから、外からでは中の様子は分からない。この中に鴨居くんとその家族がいると思うと不思議だ。人の家を見ても、そこに不登校の子が住んでいるとかそういうことは想像がつかない。
 ああ緊張するな。鴨居くんは大丈夫なのかな。鴨居くんが黒野くんにいじめられているのなら、わたしが黒野くんのことを好きなのがばれて、嫌われたりしないだろうか。嫌われるのはいやだな。わたしはインターフォンを押した。
 少しの間。待つ。その後で、大人の女の人の声が聞こえてきた。
「はい鴨居です」
「あ、すみません。クラスの……鴨居くんのクラスの……あ、えーと陽太くんのクラスの……戸所……学級委員なんですけど、戸所と申しますけど、プリントがあって、あと、できれば少し様子を……プリントを届けに来ました!」
 どもりすぎだ、わたし。
「少しお待ちくださいね」
 おばさんが出てきた。ほっそりとした顔の白い人だった。ファンデーションが少し多い。
「あらかわいらしい! わざわざ来ていただいて、ご足労おかけしてすみません本当に」
「あ、いえいえ、そんなに遠くないですから。あ、これプリントです」
「どうも、わざわざすみませんね本当お手数おかけして」
「いえそんなことないです、学級委員ですから、いえいえ」
 二人で二十回くらい頭を下げ合った。ちょっと間抜けかも知れない。心だけでコミュニケーションしようとするとこうなる。わたしはあなたに敵じゃないです。味方です。安全です。
「それで、あの……」
「はい」
「鴨居くん……陽太くんは、大丈夫ですか?」
 聞くと、おばさんは、困った、という顔をした。
「それが、部屋からぜんぜん出てこなくなっちゃって……『学校行かなくていいの?』って聞いても『いい』としか言わなくて。あまり話もしてくれないし」
「えー」
 引きこもりだ。重たいじゃないか。
「無理に引っ張り出す訳にもいかないし……もう困っちゃって」
 優しい人だなあ。いいなあ。こんなに気遣ってくれるなんて、うちのお母さんじゃ考えられない。それとも、わたしかお兄ちゃんが引きこもったりしたら、お母さんもうるさくなくなるのだろうか。
「あの、もし良かったらでいいんですけど、ご迷惑だったら全然お断りしていただいていいんですけど、もしかしたら、お友達に声をかけてもらったら、喜んでくれるかも知れないので、ドア越しにでも、少しだけでも話していってくれないでしょうか?」
 お友達。わたしと鴨居くんは友達だろうか。そんなに話したことないけど、でもまあ、クラスメートだし、友達じゃないってほどでもないか。心配だし。
「はい、是非。わたしも実は、良ければそうさせてもらおうかなと思って来たんです」
「そうですか、すみませんありがとうございます!」
「いえいえ、学級委員ですし心配ですし」
 また二人して頭を下げ合う。どうでもいいけどわたしは、わたしが学級委員であることを強調し過ぎな気がする。



「鴨居くん?」
 閉ざされたドアに声をかける。おばさんはわたしの横で見守っていた。しばらくしてドアが返事をする。
「誰?」
「わたし……えっと、戸所。学級委員の……」
 まただ。いくら登校拒否でもクラスメートのことを覚えてないってことはないだろう。にも関わらずまたわたしは、学級委員だとか要らんことを口走ってしまう。学級委員かどうかはどうでもいいよ。
「戸所? 何しに来たの?」
 会話が成り立っている。向こうの表情は見えないけど、話せば返事をしてくれることに、まずはわたしは安心した。
「プリントを届けに来て、それから、鴨居くんの様子はどうかなと思って」
「様子? オレが心配で話しかけてきたの?」
「そうだよ」
「嘘つけよババアに言われたんだろ!?」
 心臓が跳ね上がる。
 大声で怒鳴られた。いきなりだ。すごく怒ってる。びっくりしてわたしは言葉を失った。わたし、鴨居くんを傷つけてしまったの?
「陽ちゃん、違うの。戸所さんごめんなさいね……息子の機嫌が悪いみたいで……。陽ちゃんあのね、戸所さんは自分から陽ちゃんと話すつもりだったのよ」
 おばさんから鴨居くんとわたしにフォローが入る。ごめんね、と言われてわたしは首を振るしかできなかった。悪いのはわたしかも知れないんだ。
「うるせえよ言い訳すんなよ。っつーか口答えすんなっていつも言ってんだろ? 何度言えば理解できるわけ? オレ、馬鹿は相手にしたくないって言ったよね? おい分かってんのかよ。前も言ったよね? 前も言ったのに……何度も何度も何度も言ってんのに……なんでそんな簡単なことも理解できねえんだよ! 首つって死ねよ早く。今すぐ。死んでくれよ頼むからさあ!」
 罵声が機関銃のように飛んでくる。わたしは信じられない思いだった。お母さんにそんなこと言うの? なんで? いやわたしもお母さんに文句くらい言うけど……死ねって……幾ら何でもそれは言ったらだめだろう。
「陽ちゃん、ごめんね……お母さん気が利かなくって」
 おばさんは怒らない。それどころか肩をきゅと堅くして、おろおろしだしていた。どういうことだろう。何だろうこの気持ち。
「もういいよ! おまえは下に降りてろ! 戸所と話すからさあ!」
「ごめんね……お母さんちゃんとするから」
「いいから。謝らなくていいから降りろ。早く」
 鴨居くんが命令すると、おばさんは本当に階段を降りて行った。「戸所さん、すみません、わたしがいると邪魔みたいなので、陽ちゃんと話してあげてください」とわたしに謝りながら。よく謝るなあ。こんなこと、高校生のわたしが思うのも何だけど……少し可哀想だ。
「鴨居くん」
「あいつ降りた?」
 ドアからの声。冷たい、温度のない声に聞こえた。鴨居くんがわたしは分からない。姿が見えない。それだけではない。気持ちが分からない。なにを考えているのか分からない。
「なあ戸所、あいつ降りた? ねえ。降りたフリとかしてない?」
「降りたよ……」
 わたしは答える。わたしは分からない。
「完璧に下行った? ねえ、悪いけど覗いて見てくれない? 階段の下の、微妙な位置にいたり、聞き耳立てたりしてない? あいつしつっけえからさあ。マジ死んで欲しいよね」
 細かく確かめようとしてくる。この人はそんなに、何を気にしてるんだろう。お母さんを傷つけたことよりも気になることが、何かあるんだろうか。
「いないみたいだよ」
「よし。じゃあ、入れよ」
「え?」
 わたしは虚を衝かれた。そう言われるのは予想外だった。てっきり、引きこもりの人の顔は見ることなど出来ないと思っていたのだ。
 ドアは開いた。



つづく