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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2011年


トド17




 幼稚園の頃、一緒に人形で遊んでいた友達が、わたしの持っているウサギの人形を持って帰ってしまったことがある。その子の家に行っても返してもらえなくて、わたしは泣いて家に帰った。そしたら兄ちゃんが取り返してきてくれた。向こうのお兄ちゃんとケンカになったけど、やっつけてしまったらしい。
 後から同じ人形がもう一つ、わたしの部屋で見つかった。毛布と掛け布団の間の異次元にはさまっていて、そこにあることが分からなかったのだ。取り返してきてくれたのはあの子が自分の親から買ってもらった人形だった。わたしは青くなった。
 お兄ちゃんとお母さんと、三人でその子の家に謝りに行った。その子とお母さんは許してくれたけど、その子のお兄ちゃんは不満げだった。
 後日、お兄ちゃんは、その子のお兄ちゃんに殴られてしまったらしい。お兄ちゃんは怒りもしなかったしわたしに何も言わなかったけど、その子から聞いて知った。そのことをわたしがお兄ちゃんに言ったら、勝手に突っ走ったのは自分だから、と何でもないみたいに言うだけだった。本当になんでもない風で、石に蹴つまづいてずっこけちゃいましたくらいの気軽さだった。二人でゲームをしてる最中で、ボスモンスターとの死闘になって、その話題はすぐに流れた。
 そのことを、時々思い出して考える。
 その子とわたしは今でも仲良しだし、その子の親とわたしのお兄ちゃんもそうだ。
 テレビを見て、アフリカには、日本では考えられもしないような悲惨な生活をしている子供たちがいることを知った。とても見てはいられない恐ろしい現実で、わたしは今でも、そのことがつらく、自分の無力感を押し込めるように募金をしたりしている。
 家族で旅行に何度も行って、車の窓から、高速道路をはさむ木々や、どこまでも広がる田園、ぽつんとたたずむかかしや広告看板を見た。うとうとしていて眠っていたら、いつの間にか旅館に着いたりしていた。お父さんとお母さんに連れられて、すてきな館内を見て回った。
 女の子だからと無茶を止められ、女の子だからと席や順番を譲ってもらえたことが何度もあった。
 乱暴な男子にブスって言われて殴られた。友達はそのことを怒ってくれた。
 利根川さんは水晶をくれた。水晶はいろんなことを教えてくれた。
 利根川さんのお願いで、わたしは宇多さんとつぼみさんに助けてもらった。
 わたしは守られている。

 わたしは何をしてあげよう。
 わたしには何ができるんだろう。

 わたしはこれまで、柔らかくてあったかいたくさんのクッションに埋もれていて、居心地よく、ずっとぼんやりしていた。これからわたしはそのクッションをかきわけて、冷たいアスファルトの床に足を下ろそうと思う。それで、できることを探すのだ。きっと、何人かはわたしを止めようとする。わたしを想って、それに反対してくれるだろう。うれしい。ありがとう。でも大丈夫。
 わたしのハートの貯金は潤沢にあって、もはや決して尽きることは無い。わたしの人生はたぶん、それをどれだけ配って回れるかの勝負なのだとおもう。



<黒野大地>

 異常値だ。
 戸所硫花は今日も日誌を書きつけている。万感の想いを押さえつけるように無言で、無駄に力を入れてシャーペンを動かすその姿を見て、おれは確信する。
 平凡に見える人となりの裏に、顕在化していない巨大な特質が隠れている。言動の端々からそれは伺えた。非連結型の思考構造。嘘偽りのない利他意識。信念のために恐怖をも抑制できる意志。一切の歪曲、汚染を受け付けないアーキタイプ。揺るがない魂の形。周囲の善意を誘発し、保護を強制する暴力的な素朴さ。
 広がることはない。射程は短い。あくまでごく周囲の人間を教化するだけだ。しかし、浸透圧は高い。
 単体では何でもない。だが、教化された人間の性能を精神的支援によって増幅、あるいは変質させる。
 それが何になるのかは分からない。おれには見当もつかない。結果だけが理解を許す。無害無益な孤立人だった利根川たゆみは戸所の触発によって、他者への干渉という性質を獲得している。本来相容れない、受け入れられないはずであったものを、まるで自然な成長のように取り入れたのだ。これが異常でなくて何を言おう。
「黒野くん」
 戸所が筆記を止めてこちらを見た。時は放課後、教室には俺と戸所の二人のみ。戸所が、俺に対話を持ちかけてくるのは分かっていた。未解決の何かを抱えて。それが何なのかまでは読めていないけど。
「この間も言ったけど、わたしはあなたのことが好きです」
 彼女はゆっくりと言った。おれは手早く答えた。
「ありがとう。おれも好きだよ。相思相愛だやったね。付き合おっか?」
 リズムを外してペースを崩すつもりだった。相手が普通ではないのは明らかだ。それでいて何がどう普通でないかは分からない。必要な対策も分からないし、特にできる準備もなかった。暴力が思うような効果を発揮しないのは先日のアクションで実証済みだ。底の見通せない、茫洋とした何かを前におれは空手で対峙している。攻撃や防御が必要な状況に来ているのだと思う。
「また逃げる。おふざけは誤魔化しだよ。傷つきたくないからそんなことをするんだ」
「そうだね。悪かった。ちゃんときみと向き合っていなかった。でも、おれが戸所さんのことを好きなのは本当だ。特別に思ってる。だから」
 おれは真剣さを出すために一拍置く。「おいどんと、真剣なお付き合いをお頼み申す!」と言いたくなるのをこらえて、おれは両手を広げた。
「こっちに来てくれないかな」
「……」
 戸所は動かない。目を伏せてつぶやく。
「弱虫」
「戸所さんの言いたいことは分かってる。でもおれは真面目だよ」
「わかってない。黒野くんは自分と向き合ってない」
 何を言っても期待と異なる反応が返ってくる。彼女の言いたいことが分からないし、こっちの言いたいことが伝わっているかも分からない。ディスコミュニケーション。彼女はいったい、おれが何をどう分かっていないというのだろうか。聞きたくなるけどその質問には意味がない。説明できるものならとっくにしているであろうからだ。
「ねえ、黒野くん。これからさ、一緒に駅の方に散歩に行かない?」
「デート? いいね」
 彼女の誘いを快諾する。
 おれたちは仕事を適当に切り上げ、コートを羽織ってマフラーを巻いた。



つづく