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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2012年


緋森30th


緋森30th

<1:小山未練(こやまみれん)>

 起きたくなかった。
 冷えた空気がその気をさらに萎えさせる。布団から這い出ることがどれほど
の苦行か、想像するだけで身が縮こまる。
 いつも朝は気分が沈む。そしてそのまま一日中沈み続ける。
 重い体。75kg。ふつうの女の子の1.5人分だ。引きずるように動かして起き
る。
 さむいさむい。震えながら五歩歩いて、ストーブのスイッチを押す。暖まる
のを待つ間は、また布団の中に逃げ込んだ。
 棚に脱ぎ捨てたブレザーをたぐり寄せる。肩に縫いつけられた、緋高生の証
であるマトリョックスのワッペン。苛ついてぐしゃっと手の中で潰す。みんな
に口々に可愛いと言われてるのが気に入らなかった。可愛い可愛いと同調する
みんなも気に入らなかった。握った後で、自己嫌悪に陥る。
 ストーブが加熱し始めると、わたしはその前にどっかり座り込んだ。目を閉
じて暖を堪能する。ふう。落ち着く、ひとりの時間。部屋は静か。あと何分ま
でに登校しなければならないか、わたしは時計を見たくなかった。

 たまたまそこにリモコンが転がっていたので、気まぐれにスイッチを入れる
。失敗した。時刻が画面の右上に露骨に表示されていた。朝の訪れを高らかに
宣言するニュースもうるさかった。それでも、犬の特集をやってたから見た。
その後は最近話題になっている模心鬼の報道になった。模心鬼。精神構造が普
通の人間と著しく異なる殺人鬼。その危険性と傾向。わたしはすぐにスイッチ
を切った。日常だけでさえ憂鬱なことばかりなのに、非日常の問題まで気する
余裕なんてない。

 時を止める剣は無い。
 神さまをなだめてもすかしても、始業ベルが鳴るのは止められない。ラージ
サイズの制服に袖を通し、わたしはいそいそと登校した。ふっひっひ、見てよ
この姿。女子高生女子高生と世間はもてはやすけど、わたしはきっとそこに含
まれないんだろうな。



 教室に着く。わたし以外のみんなは楽しげに話している。居場所がなくても
席には着かなくてはならない。

「まあ見てなって、絶対あぶり出してやるんだから! いやもうね、見当はつ
いてるの。けっこう勘には自信があるからね。顔を見るだけでね、なんとなく
わかっちゃうの! 誰もいないところで問いつめれば、相手はきっと我慢でき
なくなって馬脚を表すに決まってるわ。そしたら――」

 通れない。
 教室の入り口で稲葉さんがお喋りしている。こちらには気づいていない。

「あの……」

 意を決して声をかける。でもまだ気づかれない。わたしはもうひとつ頑張っ
て、彼女の名前を呼んだ。

「稲葉さん……」

 稲葉さんがこちらを向いた。さっきまで楽しげに友達とお喋りしていたのに
、わたしの顔を見るなり驚くほど表情が冷たくなる。同じ人間を見る目とは思
えない。わたしは体が強ばるのを感じる。

「何?」
「あの、そこ、通りたいの」
「……」

 稲葉さんは無言で道を開けた。わたしは「ごめんなさい」と言いながらそこ
を通る。通った後で、後ろからひそひそ声が聞こえてくる。悪口だろうか。た
ぶんそうなのだろう。わたしは気づかない振りをして自分の席に向かう。
 鞄を机の横にかけ、椅子に腰を下ろす。今になって悲しくなってくる。教室
に入るだけで、なんでこんなにつらい思いをしなければならないんだろう。泣
きたくなってきたけど、わたしが泣いたらそれだけでまた嫌がられてしまう。
何同情誘ってんの? とかそんなことを言われるのだ。
 涙をこらえながら視線をさまよわせる。みんなの顔は見ない。見れない。代
わりに、みんながつけているマトリョックスの顔マークと目が合う。
 緋高生の証。わたしもつけている。けどわたしには、それが仲間を識別する
シンボルマークには、どうしても見えなかった。

<2:鏑野豊(かぶらのゆたか)>

 人が誰かを見ているとき、同時に他の誰かから見られていたとしても気づか
ない。だから、ぼくが小山さんのことをいつも見ていることも、ぼくが気づい
てないだけで他の誰かからは丸分かりなのかも知れない。
 だとしたら恥ずかしいけど、でもまあ小さなことだ。彼女が常日頃から受け
ている苦しみに比べれば、ぼくごときの恥辱なんて問題にもならない。
 ……と格好つけたことを思ってみるものの、現実のぼくは意気地なしだ。彼
女に想いを伝えることもしないし、彼女が誰かから傷つけられているときにも
、それを庇おうとする勇気がない。
 小山未練の評判は悪い。クラスの女帝・稲葉裂希を筆頭に、主に女子からそ
の態度に反感を買われている。睨むような目つき、つっけんどんな返事。その
悪印象に相乗効果をもたらす肥満体型とニキビ顔。体育の持久走でも、苦しそ
うに走る彼女は「ゆっくり走ってみんなを待たせるな」と罵倒される。彼女は
無視するしか出来ない。さらに反感を買う。
 けどぼくは知っている。彼女も初めから周囲に壁を作っていたような女の子
ではなかったことを。一部の心ない生徒の攻撃から始まって、少しずつ心を痛
めていったことを。
 そして、あのふくよかな体の内側には、驚くほど繊細で瑞々しい感性が蓄え
られていることを。美術の時間に彼女が描いた絵はそれを映し出していたのに
、ぼく以外の誰かがそれに気づいて認めることはなかった。
 一限は国語だ。ノートと教科書を準備していると、机の上に手のひらがバン
と叩きつけられた。

「ゆたかくん! ちょっと五秒付き合ってっ」

 稲葉裂希。人格に不釣り合いな美しい顔をこちらに近づけてくる。ぼくを動
揺させようとする意図が透けて見えて、努めて素っ気なく返事をした。

「なんだよ」
「あのね、ゆたかくんにだーいじな話があるの。屋上なんだけど、ちょっと来
て欲しいな?」

 屋上に行くんだったら何ら五秒では済まない件は流すとして、ぼくはなんだ
か苛々してきた。この女は男子なら誰でも自分のことを気にしていると思って
いる節がある。まさかこんな周囲の面前で告白の呼び出しでもなかろうし、ど
うせ禄でもない用件に決まっている。関わりたくない。

「喋りかけてくんなよ。あと口臭ぇよ。顔近づけんな」

 別に臭くはなかったけどそう言う。稲葉の顔が一瞬歪む。が、ぱっと無表情
になってぼくの髪を掴んできた。

「痛てっ、何す」

 耳元でささやかれる。

「ここで言わないのはゆたかくんのためなんだけどな? 秘密を秘密のままに
したかったら、生意気言わない方がいいんだよ?」
「秘密? 何のことだ」
「気づいてないと思ってた?」

 稲葉が目で語る。すべて見抜いていると。何のことか? 決まっている、ぼ
くが小山さんを好きだということだろう。

「どうせ一限、木崎だしさ。休んでもばれないよ」

 言い触らされて困るのはぼくじゃない。小山さんだ。ぼくは席を立った。
 稲葉はきびすを返してさっさと教室を出ていく。ぼくはその後を馬鹿みたい
についていく。



 稲葉の後について屋上に出ると、別の女子が大の字になって寝ていた。横に
なっているのではない。指先のかじかむ寒空の下、その女子はいびきをかいて
眠っていた。ボリュームのある金髪が風になびいて、ばたばたと床を叩いてい
る。

「起っきろ!」

 目を閉じているのは、彫刻みたいに精緻な顔。その頭を稲葉は上履きで小突
いた。起きない。稲葉の忍耐は一瞬で切れて、さらに腹を足で踏む。

「起きろって!」
「ぶぐぇっ!?」

 声というよりは空気が漏れる音を口から吐き出して、金髪の女生徒は目を見
開いた。上半身だけ起こし、尻は地べたにつけたままあぐらをかく。

「おはようございまーす」

 彼女は稲葉に踏まれたことを気にもしないで明るい声で挨拶した。
 ハチェット・メイフィールド。稲葉とは別の意味で、その美貌にそぐわない
人間性を備えた女子だ。稲葉と二人で美人同士つるんでいる。

「あんたよくこんなところで寝れるわね。風邪ひくわよ?」

 稲葉が呆れる。こんな女でも友達の心配はするらしい。

「問題ありませんよー。風邪引いてダメージを受けても、睡眠で体力回復して
るから収支は合いますって」

 何かがおかしいハチェットの反論。彼女はクラスメートに対して敬語で喋る


「さて」

 稲葉がぼくを見た。

「なんで連れてこられたか、分かってるわよね?」
「ああ。小山さんのことだろう」

 吐き気がする思いで言う。
 ぼくなんかを呼び出して、小山さんに手の込んだいじめでもするつもりだろ
う。だがぼくもただ呼び出されて、むざむざそんなことに手を貸すつもりなん
て毛頭ない。向こうが予想だにしてないだろう痛い目に合わせて、金輪際くだ
らないことはしないよう逆に脅してやる。
 気持ちが暗くなってゆく。この馬鹿な女子を容赦なく傷つけてやるという、
ネガティヴな覚悟だ。
 稲葉は眉を寄せた。

「はあ? 何言ってんのあんた。あのデブのために裂希ちゃんがわざわざ屋上
にあんたを呼び出し? する訳ないでしょ馬鹿」
「あん? ……え、違うの?」

 ぼくも混乱する。思わず口調が柔らかくなる。言い方は気に障るところがあ
るものの、小山さんをどうにかしようというのでなければ、何も怒ることはな
い。ただ、ならどうして呼び出しを食らったのかという疑問が沸く。

「おいおい小山のことなんか気にしてんの? え、好きなのあいつのこと? 
どういうセンスしてんのよあんた!」

 稲葉が笑う。もの凄く愚弄されているが、我慢できなくはなかった。小山さ
んに直接の害意が無いのであればそれでいい。
 が、その笑いも唐突に止まる。稲葉は右手で自分の額を押さえて、あさって
の方向を向いた。

「て――そんな訳ないか」

 彼女が右手を振り下ろす。それが何かも分からないまま、ぼくは体のバラン
スを崩して足踏みした。右肩が重くなった……違う。左肩が軽くなったのだ。
 自分の体に起こった異変を、ぼくは遅れて認識した。
 無い。
 ぼくの左腕が肩から、ごっそり切断されていた。ぼとりと落ちる。
 斬られていた。稲葉の振り下ろした手に剣が握られている。中型サイズの日
本刀……マーガレットの基本の基本、斬撃剣だ。いまの一瞬で稲葉が具現化し
たのだ。

「なに――」

 しやがる、と叫ぼうとしたがやめた。肉体が発する警告に従うのが先だった
。稲葉は使用済みになった斬撃剣を左手にスイッチし、空いた右手に新たな剣
を具現化する。
 落とした手の回収もできないまま、ぼくは後ろに飛ぶ。稲葉は追撃してこな
かった。

「そんなんで裂希ちゃんを騙せると思うの? 鏡でしょ、それ」

 その通り、ぼくは鏡の剣をこっそりと後ろ手に具現化していた。目論見はバ
レたがそのまま起動する。柄を手放せば剣は消せるが、途心に返るのを待つ暇
は無い。
 左肩から血が吹き出る。早く回復させたい。しかし腕を回収しようにも、そ
れは剣を持った稲葉の足下に転がっている。

「なんだよお前、なんでこんなことするんだよ!」

 意識が急速に遠のきかけていくのを感じながら、叫ぶ。稲葉は右手に実体化
した鏡の剣でぼくと同じに反射防衛を張る。鏡の剣はすぐ消える。

「うそばっか、本当は興奮してるくせに。ほらほら、三人っきりだよ? 誰も
見てないよ? 本性現して剣振りなよ、模心鬼さん」

 もしん……き? 何だって? この女、ぼくのことを模心鬼だと思っている
のか?
 稲葉は右手にもうひとつ剣を作る。衝撃剣。両手の剣を気軽にひらひら振り
ながら一歩ずつ近づいてくる。左手の斬撃剣も使用済み状態を回復しつつある
。どんどん状況は悪くなっていく。

「前から怪しいと思ってたけど、小山なんかのことが好きだなんてとぼけたの
が推測を確信に変えたトドメね。あんな女のこと好きになる男なんている訳な
いでしょ」
「違う! ぼくは本気だし人間だ!」
「ほらほら、そう言うと思ったよ。模心鬼は心がある振りが下手なんだ。我慢
しないで模心鬼らしく襲ってくりゃあいいのに。とぼけたままでもこっちはい
いんだよ? どうせあなたを始末することに変わりは無いんだから」

 さっと血の気が引く。なぜかは分からないけど稲葉は模心鬼を殺したがって
いる。そしてぼくを模心鬼だと思っている。狂気。自らの戯れ言を真実と疑わ
ず、平気で他人をその手にかける。それを狂気と呼ばずに何を言うのか。
 言葉は通じない。見切りをつけてぼくは逃げ出した。腕のことはもういい。
ここは異常な空間だ。教室、正常な空間に戻らなければ、ぼくはこの馬鹿の勘
違いで命を落とすことになる。

 ……と、目の前で火花がスパークして立ち止まる。
 ハチェットが屋上の入り口を塞いでいる。たった今撃った咲火剣を右手で器
用にくるくる回し、切っ先の煙をふっと吹いた。

「逃がしませんよー」

 もうダメだ。
 背後から稲葉に斬りつけられたあたりで、ぼくは意識を手放した。

<3:稲葉裂希(いなばさき)>

 模心鬼。
 人間の脳味噌の、複雑さのランダムがもたらすエラー。
 一説に百万分の一の確率で生じるまずい奇跡。



 人間って、どの範囲の存在にまで優しくすればいいんだろうね? 虫や花み
たいなちっぽけでも、生命なら分け隔てなく大切にすべきだろうか? それと
も、たとえ親しい隣人や肉親であっても、邪魔なら殺していいものだろうか?
 人間を裁くのは世論だから、世論を参考にするのが最も現実的な答えを手に
入れる方法だろう。世論とは平均のことでもある。平均的な常識を持っている
人ならきっとこんな答えを出す。
 人は人を殺してはいけない。けど、人を殺すような悪い人間は同等の報いを
受けなければならない。
 つまり人殺しは殺していいということ。もっとも、それにしたっていろんな
例外がある。なんか難民とかの、明日のごはんにもありつけない飢えて死にそ
うな子供が……こう事情があったら、殺していいこともあるだろう。
 そんな例外事項を挙げていくとキリがない。殺されそうなときには殺してい
い? 殺されそうじゃないけど半殺しにされたときは? 身内が殺された場合
とかは? この場合はどうなる? このケースは? 同時行動をしたときに、
反射と連続攻撃はどっちを先に処理するの?
 その答えは去年の十月に降ってきた。世の中には、人権を剥奪していい種類
の悪人がはっきりと存在する。そいつらは殺していい。偉い大学の何とかの教
授が、テレビで自信を持って断言していた。
 その人たちのことを模心鬼という。簡単に言うと殺人脳。一種の異常人格者
だ。お風呂の排水溝の渦がたまーに反時計回りになるのと同じ理屈で、十歳く
らいまでの間に脳の成長のうやむやで、たまーに普通の人間と全く異なる、コ
ンピュータみたいに意志の無い心の持ち主になることがあるらしい。
 そいつは普段はカモフラージュして普通の人間のフリをするし泣いたり笑っ
たりするけど、実は何も感じてない。けど生の実感を求めて人を殺すのだとい
う。
 ここ数日、緋校生が五人も殺人にあった。捕まってない。きっと緋校生に化
けている模心鬼がやったに決まってる。誰かが食い止めなければならない。そ
んなこと誰ができる? 裂希ちゃん以外に適任はいない。

 裂希ちゃんが模心鬼を暴いて殺すぞ!



 風がびゅうびゅうと吹いている。屋上は裂希ちゃんたち三人のほかは誰もい
ない。寒かった。

「ねえ、ハチェット」

 裂希ちゃんは床に転がる鏑野豊の肉体を見つめる。裂希ちゃんが切断した左
肩から、どくどくと血が流れていた。

「なんですか、裂希ちゃん?」

 ハチェットは両手の咲火剣を持ってあれやこれやと決めポーズを研究してい
る。この子はすぐに映画とかの影響を受ける。

「模心鬼って確率的に異常な存在らしくって」
「ハーイー!」
「サイコロを振らせたら偏った結果が出たり、出血したらその模様が秩序を持
って数式とかになったりするらしいんだけど」
「バーブー!」
「こいつの血、なんだか全然普通に見えない?」
「チャー!」

 血は普通に流れている。どう見ても人間だ。わたしは青くなった。慌てて鏑
野の左腕を持ってきて、本体の肩に投げつける。

「回復! こいつ回復させて! 今すぐ!」
「いいですけど、攻撃した裂希ちゃんが自分でやったらどうです?」
「無理! わたし、いっつも途心全開で戦ってるから!」

 途心のリリースバック・インターバル。
 一度意味を確定した途心はすぐには戻せない。個人差もあるけど、剣一本や
身体性能一点分を途心にリリースバックするのにだいたい一日くらいはかかる


「しょうがない人ですね裂希ちゃんは。それじゃあわたしが回復して差し上げ
ますか。おりゃぁっ! わー反射された! もう一本、そりゃあ、死ねー!」

 ハチェットがなぜか殺意を込めて、優撃剣を実体化させて鏑野の肉体に振り
おろす。回復剣を使えばいいようなものだけど気持ちは分かる。鏑野の肉体は
水面のように剣を吸い込み、光を受けて肩の傷を癒した。



 昼。お弁当の時間。
 鏑野が終始睨んでくる。攻撃したけど回復させたから収支ゼロのはずなのに
、粘着質に根に持っている。気にしない。無視無視。けどあまりにもこのうざ
いのが続いたから裂希ちゃんは蹴りをくれてやった。小山に。鏑野を効果的に
牽制できるし誰も傷つかないしいいことづくめ。鏑野は睨んでくるのをやめた
。狙い通り。裂希ちゃんは賢い。

「つーか模心鬼、誰なんだろうね?」
「そうですねー」
「絶対このクラスにいるはずだよね」

 みんなに聞こえるように言った。誰からも反論が返ってこない。裂希ちゃん
が正しいことの証拠だ。と思ってたら横から突っ込みが入った。

「模心鬼などいない。金目当ての学者が権威を振りかざし、脳の不可解析性に
つけこんで娯楽性の高い理論を喧伝しているだけだ」

 不遜にも裂希ちゃんに話しかけてきたのはロボット男の生田だった。鬱陶し
い論理を無表情で喋る男子。生田はうどんを啜っていた。
 うどん?

「え、それうどん? 弁当でうどん?」
「俺の親は言っていた。実家から大量に送られてきたために弁当に組み込んで
でも高速に消費する必要があると」
「いや可能なの!? 弁当でうどんって」
「ああ。魔法瓶に入った汁と既に一度茹でてある麺をどんぶりに入れて混ぜる
だけだ」

 なんだかカップ麺みたいなお弁当だった。

「いやうどんの話はどうでもいいのよ」
「君が振ってきた話と記憶している」
「どうでもいいの! けどさっきのは聞き捨てならないわね。模心鬼がいない
訳ないじゃない! 現にこの近辺で殺人が五件も起きてるし」
「その犯人が模心鬼であるという根拠は無い」
「じゃあなんで殺人が起きてるのよ! ほかに理由がないじゃない! そうま
で言うなら模心鬼がいないって証拠を持ってきなさいよ!」
「捜索範囲の限定されていない不在証明は不可能だ」
「でしょ!? 自分で認めてんじゃん、模心鬼はいるって!」
「君が俺の話を理解できないのは君が馬鹿だからだ」
「ふ、反論できなくなったら相手を馬鹿呼ばわり? 自分が馬鹿なのをアピー
ルするだけだからやめた方がいーよ?」
「もういい」

 生田はうどんをすすり始めた。完全に論破した。裂希ちゃんの勝利だ。



<4:生田零(いくたはじめ)>

 ひとつ学習した。馬鹿とは会話できない。

「……つーか」

 稲葉裂希の勝利宣言で会話は閉ざされた。しかし稲葉裂希はまだ俺を見てい
た。

「分かっちゃった。確かに裂希ちゃんって馬鹿かもねー、なんでこんなことに
気づかなかったんだろ!」

 稲葉裂希は理解したと言う。何をだろうか? 口調から推察するに、俺の主
張のことではなさそうだ。

「生田、あんたが模心鬼なんでしょ? 模心鬼の存在を否定するからおかしい
と思ったのよね!」

 俺は稲葉裂希に濡れ衣を着せられようとしていた。

「模心鬼でなくても模心鬼の存在は否定できる。よって否定は模心鬼であるこ
との根拠にはならない」
「模心鬼なら存在を否定して騙そうとするじゃない!」

 危険。稲葉裂希が剣を作って臨戦態勢に入った。俺も席を立ち剣を作る。

「ほらちょっと揺さぶったら剣なんか持って! 間抜けね、そこまで怪しい行
動を取らなくてもいいのに」
「構えたのはお前の行動に危険を感じたからだ。それに模心鬼なら日中公衆の
目前で殺人を犯したりはしない」
「模心鬼ですら日中に殺さないなら、日中に殺すあんたが人間の訳ないでしょ
!」
「俺は殺していない」

 馬鹿に反論が通ることはないと確信しつつも反論する。時間を稼げば誰かが
止めに入ると考えたからだ。だが誰も動かない。当てが外れた可能性があるが
、まだ続ける。

「だいたいあんたの喋り方って何なの? キャラづけかと思ったけど違ったわ
ね。人間じゃないからそういう風にしか喋れないんでしょ?」
「俺の言葉の用法は親譲りだ。模心鬼の人格の異常性は遺伝にも環境にも無関
係な突然変異のはずだ。特徴が一致しない」
「エラー、特徴が一致しませんって? それは翻訳するとワタシハロボットデ
スってことなんだよ」

 事象の意味を自分の都合で確定した人間の認識は何を言っても覆せない。人
類は戦火の種に事欠かない。

「しかも零って名前がもう虚無だよね。名前が体を表しすぎだよ」
「俺が模心鬼になることを、出生時点で俺の親が見越していなければその理由
での命名はあり得ない」
「見越してなくてもあんたは模心鬼になったでしょ!」

 危険。稲葉裂希の右手が白熱する。喋りながら高速で黙祷していたらしい。
光が膨れ上がる。俺は今から防御の剣を選ぶ。間に合わない可能性がある。
 稲葉裂希の爆炎剣が発動した。俺は回復剣を作った。防御しなかった。死に
さえしなければ、被害後に回復した方が効率がいいと考えた。
 爆炎が広がった。俺は意識を失った。

<5:ハチェット・メイフィールド>
 #########

<6:三人称>

 爆発後。教室は荒れていた。
 ガードやクッションなど、それぞれの防御に成功した生徒は倒れた生徒を起
こす。何人かは剣を持ち、無謀にも稲葉裂希の鎮圧を試みている。

「痛たた……」

 ハチェットは瓦礫の山を押し退けて身を起こす。爆炎そのものは防いだが、
爆風による二次災害で机の下敷きになっていた。ひしゃげた金属の破片が刺さ
り、腕から血が滴っている。

「うう……」

 誰かがそう言ったのを聞いて、ハチェットはうめき声を復唱した。優撃剣で
自らの傷口を刺して傷を癒す。何も感じないまま。
 下を見ると、床に落ちた血が偶然ではあり得ない模様を作っている。自らの
正体を隠蔽すべくハチェットは、咲撃剣を振って血痕を焼き払った。

<おわり>