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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2012年


ジェイルとディジェット


ジェイルとディジェット



 ラベンダーの匂いがジェイルの鼻をかすめる。それは香水の大瓶を手放さないディジェットの動物臭だ。彼女が、この家にいる。ジェイルは身をすくませた。

 強迫観念。振り返れば今にも後ろにディジェットが立っているのではないか。自分のどんな些細な動きが彼女に斧を自分の脳天に振り下ろさせる引き金にならないかと怯える。モンティ・パイソンの特番を映すテレビを眺めながら、それを笑うことも消すことも出来ない。進退窮まって硬直する。

 違う。

 歯を鳴らす彼を恐怖から行動に引きずり出したのは、そんな想像は最悪でも何でもないという気づきだった。ディジェットが自分を襲うだけならまだマシだ。しかし、彼女がネリーに近づいたとしたら?

 ジェイルは立ち上がって振り向く。そこには彼に襲いかかろうとした狂女などいない。彼女の行動履歴は明白だ。監獄の壁を割ってから一目散にこの家に来て、かつての夫と娘に会いにきたのだ。そしてそのどちらもいないと知ると、油断しきった彼がカレンダーに書き込んだ予定を見て行き先を定めた。そして……

 カレンダーにはフェイスの家で今まさに行っているパーティの予定が書かれている。彼女はそこに向かっただろう。そしてそこにはネリーがいる。

 ネリー!

 携帯でフェイスに連絡を取る。出ない。フェイスじゃなくてもいい。パーティに参加している友人たちに、ネリーを狙う狂女の存在を知らせなければならん。ミッシェル。アリード。つながらない。ゲリオック。

「もしもし? おお、ジェイルか。いや駅前なんだけどさ、ケッタッキーがレッドチキン・フェアを」
「ごめんまた連絡する!」

 ゲリオックはフェイスの家にいない。一瞬でも時間を無駄にしたくなかった。ジェイルはフェイスのパーティーに参加している中で連絡のつきそうな友達として、最後にミラーをコールする。

「はあい、ジェイル?」
「ミラー! 今フェイスの家にいるか? そこにネリーはいるか?」
「ジェイル、どうしたの? そんな怖い声出して……」

 ミラーのお馴染みの口を尖らせる表情が見えてくるがそれを笑う余裕は無い。ジェイルは思わず携帯に唾を飛ばす。

「頼むから質問に答えてくれ! そこにネリーはいるのか?」
「え、ええと、うん、いるわよ。ミッシェルと外に出ていって……」
「いるのか、いないのか!?」
「だから、いるってば。今この部屋に、じゃないけど」

 ジェイルはミラーのアヒル口をつまんで540度捻りたい衝動にかられた。あまりのじれったさに声をつまらせる。そして自分の動揺を悟り、深呼吸をした。

「ミラー。今から俺の言うことを聞いてくれ。緊急事態なんだ」

 ジェイルは玄関先で靴を履きながら喋る。ミラーに指示を出しながら、自らもネリーの元に駆けつけなければならない。マルチタスク。

「ちょっとドディ! そのシャンペンはわたしのだって……あ、ごめん聞いてなかった」
「聞いてくれ! 緊急事態なんだ!」
「あ……あ、うん。ごめん。聞くわ。はい続けて」
「俺の妻が脱獄した可能性がある」
「あんたの妻って、あの、頭がおかしい……?」
「そうだ。あのディジェットだ。俺の家に一度寄ったらしいがもういない。おそらくそっちに向かって、ネリーに会おうとしてる」
「脱獄? そんなことがあるの? 考えすぎじゃないの?」
「考えすぎであって欲しいよ! でも悪い予想に従って行動すべきだ。自分の娘の命がかかってたら、100に1つしか失敗しない賭けだってしないだろう? 頼むから言うとおりにしてくれ」
「わかった。で、どうすればいいの?」
「そこにいる全員で集まって、事情を話してくれ。そしてネリーを守ってくれ。間違っても少人数で外出なんてしないで欲しいんだ。さあ今すぐ頼む。電話は切らないで!」
「オーケー。ねえみんな!」

 受話器の向こうで動きが聞こえる。ジェイル自身も、携帯を耳に当てながらフェイスの家に向かっていた。フェイスの家は近い。坂を5分も下れば着く。最悪の場合、外出したネリーが既にディジェットと遭遇している可能性がある。考えれば考えるほど、それはジェイルの足を速めた。

「外出してるみたいだわ」
「どこへ!? 誰と!? 何でほかの奴らには携帯が通じないんだ!?」
「そんないっぺんに聞かないでよ! ネリーは、フェイスと、それからアリードと一緒に出かけたわよ。アリードがどうしてもメロンを食べたいって言うから……『お父さーん!!』」

 ネリーの声が受話器の奥から聞こえた。ジェイルはぎょっとして足を止めた。

「ネリー? そこにいるのか!?」

 とにかくフェイスの家に向かわなければ。ジェイルは歩行を再会しながらミラーを問いつめる。

「いないわよ? ネリーなんて」

 ミラーはそう言う。それと同時に、何かが暴れているような騒音が聞こえる。ジェイルは違和感を覚える。

「何の音だ?」
「音? ……ああ、ドディが酔って暴れて……」

 さっき聞こえた声は確かにネリーのものだった。ネリーはそこにいるのだ。しかしミラーはいないと言う。なぜ? ミラーは嘘をついているのか? 何のために?

 気がつけば、息が切れそうなほど走っている。ジェイルの家からフェイスの家まで、下りで歩いて5分。5分じゃ間に合わない。1分でも、1秒でも早く、フェイスの家に着かなければならない。状況を確認しなければならない。

 足が進むのと並行して思考も進む。向こうには、既にディジェットがいる。あの無敵のディジェットがだ。確信する。間違いない。ディジェットがいなければ、こんな違和感を生じるような状況に陥っているはずがない。

 なぜミラーは嘘をつく? 脅されているからだ。違う。ミラーは脅しに屈するような女だろうか? そうかも知れない。どの道、たとえばネリーが人質にとられていたら、ミラーが脅しに乗らない理由はなくなる。いや違う。その割にはミラーの声には怯えや緊張がない。ジェイルに悟られまいとしているとしても、そこまで演技上手だとは思えない。演技? 演技だって? ……そうか。ジェイルは悟った。ミラーがミラーらしからぬことを言う。その理由。それは彼女がミラーじゃないからだ。無敵のディジェット。支配者。学生時代から彼女は万能だった。出来ないことはないように見えた。ならば、旧友の声真似をして夫を騙すことは? ……答えは明白だ。造作もない。

「ディジェット!」
「おっひさしぶりー、マイハニー!」

 とびきりの明るい声。友人とおしゃべりする時も、「教育」と称して娘の髪を掴みながら虫入りのオムエッグを無理矢理食わせる時も、変わらない調子でつむぐ歌のような美声。かつて彼を酔わせてイチコロにし、今では彼に吐き気を催させる声。

 声を聞いて足が震える。逃げたい。だけど逃げられない。ネリーを守らなければならない。

 フェイスの家に到着する。一直線にパーティルームに向かう。ディジェットは恐ろしいが、とにかくネリーの安否を確認しなければならない。それが最優先だ。

「ネリー!」叫びながら玄関に飛び込む。「どこだ!」

 幸運なゲリオックはここにはいない。だがフェイス。ミッシェル。アリード。ミラー。死体が転がっていた。すべて頭から血を流している。鈍器だと直感した。そしてディジェットが一番声真似のしやすいミラー以外の携帯につながらなかった理由がわかった。すべてディジェットが切ったのだ。

「ネリーはどこにいる!」

 さみしいパーティルームの真ん中で、ジェイルは受話器に向かって叫んだ。恐怖は焦りで脇にどかされているが、消えた訳ではなかった。

「……二階の寝室のクローゼット」

 ディジェットがそう言った。本当かどうかは分からない。しかし見に行かない訳にはいかない。

 ジェイルは勝手知った親友夫婦の階段を掛け上がり、フェイスらの寝室に入るとクローゼットに飛びついた。開ける。

 そこにネリーはいた。しかし頭から大量の血を流し、両目は白目を剥き、そして体中に青あざを作っていた。

「……う、」

 生きているだろうか? 愚問だった。ジェイルは携帯を取り落とす。絶望が、脳の奥から渦をなして口から漏れた。

「うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「ただーいまっ」

 背後から抱きすくめられた。吐息が首にかかる。悪夢のような状況の中でひとつの動揺も見せない異常な感性。昔から変わらない。恐るべき彼の妻。

「……て、てめえ」
「あなたに逢いたい一心で、ここまで来たんだよ。施設の構造調べたり、看守たらし込んだりで大変だったんだから」
「こ、殺してやる……殺してやる!」
「あなたにわたしが殺せるの?」

 ジェイルが隠し持っていたナイフに、ディジェットが気づいていないはずは無かった。しかしそれがなぜ、いともあっさりとディジェットの喉に吸い込まれたのか?

 なぜ、ディジェットが持っていた棍棒のプレッシャーがジェイルを凶行にかき立てたとは言え、反射神経も注意力も警戒も計算力も暴力への意志も抜群に兼ね備えたディジェットに、こうもたやすく一撃を浴びせることが出来たのか?

 なぜジェイルへの溺愛のあまり、ネリーに嫉妬し虐待しあげくの果てに殺しまでしたディジェットが、脱獄後にジェイルに直接合わずにわざわざネリーを殺してからジェイルに会うことをしたのか?

 それは、彼女の望みこそが、最愛の夫の手にかかってその生涯の幕を閉じることだったからだ。