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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2012年


プロロバリティ・キャニオン01


プロロバリティ・キャニオン



 人間、スペックが高くても自分に自信を持てるとは限らない。世紀の大発明を発見するような天才的な才能を持った科学者も、幼少の頃に敗北感や劣等感を心に植え付けられれば魂には無力さを刻み込まれる。天才的な頭脳がもたらす成果を世間に公表することによって多大な栄誉や富を得ても、その世間に対する根元的な怯えを癒すには何十年単位の月日がかかる。場合が悪ければそのまま一生を終えてしまうこともあるだろう。
 その少年はアンバランスだった。
 彼は運動も勉学も成績が良く、傍目には極めて高い性能を誇り、周囲の羨望と尊敬を集めていた。おまけに両親の躾が的を射ていたために、常日頃から行儀が良く、他人に気配りする癖が第一優先レベルでついており、嫉妬や反感を買うことも少ない。冗談や悪ふざけで笑顔を見せれば、整った顔はくしゃくしゃに皺が寄り、内面から無邪気さがにじみ出ているかのように見えた。
 少年はしかし、臆病だった。先天的に気が弱かった。きめ細やかな気配りも無邪気を装った演技も、周囲からの評判が落ちてしまわないかという恐怖から来る強迫観念が常に背景にあった。臆病で器の小さい本質を見抜かれないまま人気者としての玉座に座らせてもらえているのは、一重に彼の優れた演技力がもたらすものだった。彼は薄氷を踏むような高校生活を送っていた。
 彼の名は、黒野巌(いわお)と言った。



 容姿に優れた人間が、その自らの美貌に寄りかかって人格のバランスを欠いてしまうことがある。
 他人への迷惑を省みない奔放な振る舞いが家族からも友人からも愛嬌として扱われ、まったく咎められることが無い。彼女は彼女にとって都合が悪い現実を認識することがなくなり、他者の反感に気づかなくなる。
 その少女は、持って生まれた容姿とその研鑽に己のすべてを賭けていた。
 二割五分混じったアイリッシュの血により、人形のように細く均整の取れた造型に加えて日本人離れした白い肌を現実から授かっている。その上から彼女は化粧によって、髪から肌から丹念にコーティングを施す。彼女のセンシティブな感性は、華のように明るく美しい容貌に、あえて一滴の陰を落とした。そのようにして構築された容姿は、他者の感性だけでなく情緒にも訴えかけて、彼女への好意や恋慕を引き出していた。
 他者の羨望と嫉妬の入り交じった眼差しの中で、彼女は自分が特別な存在であることの確信を深めていく。
 挙げ句の果てには自分の優越感のより所である容姿至上主義を高らかに謳う。人は見た目がすべて、容姿の優れた人間はそれだけで他人を心地よい気分にさせ、容姿の劣った人間は他人を不快にさせる、と。独善的で力強い主張は追随者と敵対者の両方を作った。
 彼女は、彼女の主張や存在を褒め称えない人間すべてを、彼女に嫉妬する愚か者として軽蔑していき、自我の殻をますます硬くしていった。
 彼女の名は、市川楓と言った。



 二人は隣同士の家に住み、子供の頃から仲が良かった。



 窓から吹き込んでくる風が、心地よい夕涼みを運んできた。屋根付きの商店街に面した二階の自室で僕は、あと三日で終わる高校二年の夏休みを受験勉強に費やしていた。
「お邪魔しまーす!」
 窓を開けていると、一階の店先でのやりとりが聞こえてくる。普通はその内容までは聞こえない。けど今訪れたらしい幼なじみの声は大きく明瞭で、僕がいるこの二階の部屋にもはっきりと聞こえてきた。店番をしている両親も笑っている。
「イーワオ!」
 階段を乱暴に駆け上がってくる。僕の家は建て付けが古かった。彼女が来るまでの残り僅かな時間まで、僕は英単語の暗記を続けた。
「イワオ!」
 入り口の襖が可動範囲の端に叩きつけられる。彼女は僕のプライベートゾーンに賑やかに進入し、今度は勢い良く襖を閉じた。彼女の乱雑な訪問は毎日のことだった。
 振り向く。と同時に懐に飛びつかれた。
 楓。
 彼女とは同学年で、異性としての付き合いは小学の頃からになる。幼稚園以前の記憶はほとんど無いが、出会ったのはほぼ生まれた頃からのはずだった。両親からの伝聞だが、確かに最初の出会いは思い出せない。
「お前な。痛ぇよ」
 僕はわざとらしく文句を言うが、もちろん彼女の訪問は大歓迎だった。彼女の肩を掴み、引き離そうとする。ほどよく勉強に疲れた僕は、彼女の華のような笑顔を見たかった。
 だけど抵抗された。楓は僕の背中まで回した腕にぐっと力を込めていて、僕から離れようとしなかった。
 それならそれで良かった。バランス良く突き出た後頭部に手を添えて、彼女の日本人形のような髪を撫でつけた。香水の香りがほんのりと漂ってくる。楓が色気付き、汗の匂いがしなくなってからもう七年が経つ。
 楓は離れなかった。それどころか、僕はシャツの胸のあたりが濡れるのを感じた。時おり、楓は小さく震え、または鼻を啜る。
 泣いているらしかった。
「おーお、どうした?」
 僕はいかにも優しそうに声をかけてやる。それだけなら優しさなんか欠片も持ち合わせていない僕でも出来ることだった。内心では、僕の手に余るようなことで頼られてきたらどうしようと考えていた。
 僕は父親の教えに従って、人の頼みごとは極力断らないようにしている。とても面倒だし疲れるし勉強時間も削られてしまうけれど、長期的な目で見ると多大なリターンが得られることは骨身に沁みて実感している。殊に、他ならぬ楓のためなら尚更だった。
 けど楓は以前、クラスの気に食わない女子に制裁を与えてほしいなんてことを頼んできたことがある。そのときは楓を諭し、相手とは仲直りとかしなくていいから適当に距離を取ってもらうというルートで決着をつけた。楓は信じられないほど可愛く、高校に入ってからはさらに磨きがかかっている。大変結構である。が、人としてちょっと成長が足りなさすぎるんじゃないかと思うことがままある。僕も人のことは言えるほどまともな人間性は持ち合わせてはいないけど、楓のは問題のレベルが違う。彼女が日々、同級生について僕に漏らす毒は留まる事を知らない。彼女は割と親しいはずの友達についてまで、僕相手という陰で口汚く罵ったりする。
 そんな彼女の毒に、僕はほとんど拒絶は示さない。そうすれば彼女の好意を稼げることを知っていたし、他人の悪口を聞いて胸が悪くなるようなまともな神経が僕にはなかったからだ。むしろ相対的に自分が肯定される気すらして気分がいい。
 楓が女子の中で学年一の容姿評価(人気ではない)を得るほど美人であるというだけで、僕は楓のすべてを受け入れていた。
 顔だけが良ければ良くって、中身はどうでもいい。はっきり言葉にするとそういうことだ。こういう事はなるべくはっきり言葉にしない方向で生きていきたいと思う。自分の内心の醜さを見すぎると嫌な気分になる。
「……イワオ……」
 泣きが収まり、ようやく彼女が顔を上げた。大きめのアーモンド型の目が潤んでいた。それをきれいだと思う。もちろん今このタイミングでは口にしない。それにどうせ彼女はそのことを自覚しているはずだった。
「何か嫌なことがあったの?」
 僕は楓をあやす。精神年齢が子供の彼女には、相応の対応だ。僕のこの甘やかしが、彼女の成長を妨げているのかも知れないが。
 楓の目が据わる。
「クソジジイとクソババアを殺したい」
 クソジジイとクソババアというのは、彼女が両親に対して憎しみを込めて使う呼称だった。
 彼女の言う「殺したい」は比喩よりは少し本格的で、僕に対して「殺してくれ」と言ってるのとほぼ同じだった。彼女は心のなんかの病気じゃないかと思うほど人をすぐ憎む。他人から与えられるストレスを処理するのが下手なのだと思う。
 もちろん僕は殺すまでのことをしたことはない。先の彼女の級友の例と同じく、楓を辛抱強く説得するしかない。彼女は僕の言うことならある程度は受け入れてくれる。言い方には細心の注意を払って工夫を凝らさなければならないが。
「何があったの?」
「それがヒドいのよ! あいつら、イワオとはもう会うなって言うの」
「え!?」
 僕は彼女が言ったことについて感じた驚きを、やや強調気味に声に出して表現した。演技が混じるとは言え、驚きそのものは嘘ではない。楓と会えなくなったら僕は困る。彼女は僕にとって色々な意味での支えだった。
「なんでまたそんなことになったの」
「んー……もっと勉強しろ、特に受験勉強をしろ、ってのと、年頃の男女が二人きりで会うのは不健康だって。おかしくない!? 今時そんな昔の常識を持ち出してくるとかって頭悪すぎるよね!」
「なるほどねー」
 とりあえず適当に相づちを打っておく。しかし確かに、楓のご両親の指摘はどちらもズレているように思える。
 彼女も僕と同じく受験勉強を初めなければいけない頃だ。僕と同じ大学に行きたいというのなら尚更だ。しかし彼女が校外で勉強するのは僕に教わっている時だけだ。僕と会わなければ彼女はますます勉強しなくなるだろう。それでは逆効果だ。
 年頃の男女云々に関しては、余計なお世話と言わせて頂きたい。もちろん面と向かってそんなことは言えない。が、もし彼女の両親と僕でガチでの論争になったら、人格独立権を盾に頑張ってみようかと思う。
 まあそんなことにはならないだろう。首輪をつけでもしない限り、楓のワガママはご両親にはコントロールできない。ご両親の命令には強制力が全くない。
 となると、楓が僕に泣いて不満をぶちまける理由が多少不可解だった。僕はやらないが、彼女なら涼しい顔で無視すれば良さそうなものだった。
「でもなんでそんな殺したいまでなるの? いつもなら平気でシカトしてそうなのに」
「携帯とネットを止めるって言うの」
「あー」
 僕らに対する親たちの武器はこれだ。僕らはみんなお金がない。はっきり言って貧乏だ。その供給を止められることは、僕らにとってライフラインを断たれることに等しい。
 ひとしきり泣いてすっきりしたらしく、彼女は僕を椅子から引き落として畳の床に座らせた。
「も、いいや」
「いいのかよ」
「関係ないもん」
 楓が僕の頬をぺちぺちと叩いた。スキンシップだ。話題が終わりきらないままに、行為だけが次のステージに移った。
「いいよ、イワオに会えれば携帯なんていらないし、ネットもここでやればいいんだし」
 何でもかんでも僕に依存だ。結構結構。
 彼女と見つめ合う。慣れたものでひとつも照れくさくない。
 今日の彼女は頬紅がきれいだった。撫でる。この美貌のためならちょっとくらいの面倒でも頑張ってやれると思う。
 部屋の窓は開いたままだったが、二階だから誰アーケードの天井にぶら下がりでもしない限り誰からも見えない。声を出すようなことをする訳でもないので、困ることはない。
 笑ってくれる。
「期待してるからね、イワオ」
 僕が彼女の顔しか見てないように、彼女もまた僕の庇護目当てで僕にくっついている。
 僕は本来弱い人間だし、それを偽るのはとても苦痛だ。
 けど彼女がずっと僕の腕を掴んで離さないから、ずっとずっと頼り続けるから、僕は知らずのうちに、大丈夫だよ、守ってあげるよと、と心にも無いことを口にするようになった。
 その無邪気な嘘はまだばれていない。嘘を誠にするために、苦労を強いられ続けている。彼女のすばらしい美しさはその報酬だ。頑張ろう頑張ろう。彼女がいなければぼくは空っぽだ。
「期待してくれていいよ。何でも言ってくれていいよ。楓がしてほしいこと全部、楓ができないこと全部、僕が解決してあげるから。僕が頑張れるのは、楓がいるからなんだ。楓のためなら、命だって張れるよ」
 僕は本当のことと嘘を混ぜて言った。「だったらいいな」とつければ全部正直だとも言えた。
 続けて、楓がどうしてもそれを望むなら、人を殺すことだってするよ、と言いそうになったが、それはやめた。殺しは無理だ。自分が命を張ってそれを失うだけなら、僕は自分に酔いながら終わることが出来る。だけど殺人を犯してしまったらぼくは長くてつらい刑務所生活に耐えなければならなくなる。そうなったら楓にはもう会えない。出所しても楓はとうにぼくを切っているだろう。僕も楓も似たもの同士で、僕らは単純なエゴイストなのだ。
「じゃあ」
 楓が顔を僕に近づけてきた。額がかすかに触れ合うまで。
「ずっとそうしてね。やめないでね。一生を私に捧げなさい」
 僕は言葉の意味を吟味する。結婚のことだろうかと考えていると、彼女は口の端を吊り上げて凄絶に笑った。今まで見たこともない、意地の悪い笑みだった。
「私の奴隷になるのよ」
「はっ!?」
 不意打ち。背後から心臓を一突きされたような衝撃に僕は演技を剥落され、声を裏返させた。



 この二人が近接した場所で発生したのは偶然と見られている。オーバーキャニオンレベルの異常値が異常値の近くで発生する確率は多くも少なくもない。すなわちそこに相関は無いとするのが、全事象統計研究所における最新の定説である。