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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2012年


椎名里桜04


椎名里桜の話 4



<岬仄香>つづき

 椎名さん椎名さん椎名さん。

 わたしは間違いなく、彼女のすばらしさに気づいた最初の人間であったと思う。高校入学時の、入学式よりも前の日の、クラスと出席番号が書かれたカードを持って自分の席を探す最初の最初の出席日の人混みの中、たまたま廊下を歩いているその横姿を見たとき、わたしはオーラを見た。一目見て、この人は違うということを体の芯で直感した。

 この世界に希望はないと思っていた。生理的に受け付けない人間というのは誰にもいるとは思うけれど、わたしにとっては周りのすべてがそうだった。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。嫌い嫌い嫌い。顔の造形が悪すぎる。なんでこんなに不格好な出来損ないばかりみたいな奴らばっかりなのか。恥ずかしくないのか。その上、自分の醜さを心得て慎ましく生きようとするならまだかわいいものだが、そういう連中に限って自己主張が強く、思い通りにいかないと簡単にキレたりする。あまつさえ、キレて周囲を威圧することが格好いいと思ってる連中さえいる。

 地獄だ。

 わたしは小学生のとき、周りの連中とは誰一人とも、一切心を開き合わないと決めた。心を開かれることはあっても、自分から開くことはない。悩み聞くことはあっても告白することはない。そして、相手を受け入れるフリをして、その実心の底は冷えている。

 そこに現れた一筋の光明。

 椎名さんだ。

 わたしは恋をしたと思う。女同士だからって少しも恥ずかしくはない。むしろ、男のような汚らわしい生き物と馴れ合うことの方が余程おぞましい。わたしは自分の気持ちをすぐに受け入れ、そして椎名さんに近づきたい、と思った。その前提にある、自分の根元の欲求にもすぐに気づく。わたしは椎名さんに受け入れられたい。椎名さんと、抱き合いたい。そこまで思った。それができたなら、天にも昇る心地でわたしは、この十数年間生きてきて一度も得られることはなかった、心からの幸福を得られると思った。椎名さん、あなたがわたしの運命だ。

 次に醜いものを見た。

 入学式が終わり、教室での最初のHRが終わったあと、椎名さんの周りに人だかりが出来た。さすがに生徒たちの中で明らかに異彩を放つ彼女の存在に気づいた人間がわたしのほかにも何人かいたのだ。そして奴らはあろうことか、ゴールドラッシュのように我先にと椎名さんのところに寄って、馴れ馴れしく話しかけた。ある男子は彼女の机に手をついて、またある女子は、彼女の美しい髪を誉めそやしながら彼女の髪を触ったりなんかして。

 触るな。

 椎名さんに寄りつくな、この蛆野郎共。

 わたしは心臓が早鐘のように鳴るのを感じた。どくどくどく。ふざけやがって。その人はな、お前らのような三下が近づいていい相手じゃないんだよ。

 本当は、わたしも一早く、そこに駆けつけて彼女と話したかった。でも、わたしは冷静さを保った。彼らと同類になってはいけない。あんな醜い連中に混ざってはいけない。焦るな。まだクラスメートが顔を合わせて間もないけど、きっと彼女はわたしのことを見つけてくれる。今はくだらない連中に囲まれてつらいだろうけど、わたしという存在を見つけて、駆け寄ってくれるはずだ。わたしは我慢した。

 その日彼女は結局、一番押しの強い女子たちに連れられて街に遊びに行ってしまった。だけど、わたしは焦らなかった。

 それに、もしかしたらいいこともあった。

 たぶん。わたしの思いこみではないと思うんだけど……生徒がひとりひとり自己紹介をするときに、椎名さんの番になって彼女が壇上に立ったとき……

 わたしを見た気がした。

 ほかの誰でもない、わたしをだ。

 そして笑いかけてくれた。

 自意識過剰だろうか。そんなことはあるまい。客観的に見たって、椎名さんほどではないにしろ、わたしの存在だってそんじょそこらの人間とは格が違うんだから。

 それからわたしは待った。彼女が話かけてきてくれるのを。周囲のクソみたいな取り巻きを払いのけて、わたしのところに歩み寄り、その手を差し伸べてくれるのを。

 一週間。

 その間、わたしは忍耐の日々を続けた。彼女がぜんぜんわたしの方に来てくれなかったからだ。わたしは戸惑った。どうして? なぜすぐ来てくれないのですか? わたしはこんなにもあなたのことを待ちこがれて待ちこがれているのに。こんなにもあなたのことをお慕い申し上げているのに。

 もちろん必ず来てくれることはわかっている。わたしの方はいつでも都合がいいのだ。だからこちらから動いて彼女の都合の悪いタイミングに邪魔するようなことはしない。けど、あまりの放置ぶりにわたしは焦れた。

 そして入学から一週間が経過して、ようやく彼女はわたしの元に来てくれた。お昼ごはんを一緒に食べようと、誘ってくれた。

 わたしはこの日のために、彼女のために腕によりをかけて毎日作っていたお弁当を彼女に差し出した。彼女のそばにくっついている取り巻きは目を丸くしていたけど、知ったことではない。彼女はわたしの好意を驚きと共に受け入れ、お弁当を一緒に食べてくれた。

 洋服や好きなアーティストの話で盛り上がってすっかり仲良くなったから、クラブ活動で美術部に一緒に入ろうと誘ったら、椎名さんは快くOKしてくれた。前から、言葉は交わさなくても彼女と心は通じていると思っていたけれど、これによりわたしはますますその確信を深めた。

 椎名さんがいてくれるお陰で、わたしの学校生活はバラ色になった。あとは階段を上るだけ。彼女との距離を、段階を踏んで少しずつ狭めていくだけ。彼女の方もまたわたしのことを思ってくれているのだから、その日が来るのは時間の問題だった。

 だがそこに信じられないことが起こった。

 椎名さんは、美術部の活動もそこそこに、放課後に山本高次になんと御身自ら話しかけて、一緒に帰ってしまったのだ。

 なぜ?

 どうして山本?

 一体なにが起こったというの?

 わたしはすっかり混乱した。あり得ない。だって山本。一体どんな特殊な事情があれば、椎名さんのような女神のごとき存在が、山本なんていう凡夫もたいがいな男に自ら近寄らなければならないという状況が出来上がるのか。

 わたしはすぐに、事実を確かめることにした。昼休み、わたしの手製の出汁巻き卵を食べてもらっている椎名さんに、わたしは尋ねた。

「最近、山本と一緒に帰ってますね」

「そうね。気になる?」

「ええ。正直、椎名さんがそうしなければならない理由がさっぱり分かりません。何かあったんですか?」

「岬さんが考えているような意味では、なにもないよ」

 椎名さんはいつものように朗らかに笑う。そして最も信じられない、わたしが最も聞きたくなかった回答をした。

「単に彼に興味があるだけ。おかしい?」

 プチトマトのヘタを取ろうとしたわたしの手が止まった。わたしは絶句した。

「……興味がある?」

「そう」

「山本に?」

「ええ」

「椎名さん。お言葉ですけど」

 わたしはなるべく言葉を選んで彼女に進言する。

「それはおかしいです。間違っています。椎名さんが近づくのに似つかわしい相手じゃありません。だって山本ですよ?」

 いったい椎名さんは、山本のどこに興味があるというのか? その疑問を発する前に、わたしの口からは否定の言葉が流れ出ていた。だって間違ってる。間違いは正さなければならない。いくら椎名さんでも、いや椎名さんだからこそ、そのような愚行は決して許されないんだ。

 しかし椎名さんの反応は、わたしにとってあまりにも冷たいものだった。

「まあ、分かってもらえなくてもいいわ」

 箸を持つわたしの手がぎゅっと締まる。なんですかそれ。
 わたしには分からない、という。椎名さんは自分の過ちを改めるつもはないし、わたしと食い違った意見の対立も、解消する気はないようだった。消極的な回避。わたしは悲しくなった。

 それでやっと、わたしは元々の疑問を椎名さんにぶつける。

「そんな。一体山本のどこがいいんですか?」

「どこがいいか、か……。そうね、人柄かな」

「単なる気の弱いお人好じゃないですか。それに八方美人的なところもあるし」

「わたしに似てると思わない?」

「そんなことないです!」

 わたしは思わず声を荒げた。クラスの視線が集まるが、いつものごとく気にしない。奴らはジャリだ。ジャリの視線を気にする意味はない。

「八方美人っていう言い草が気に障ったなら、謝ります。けど、椎名さんがあんな奴と同じだなんて話……いくら椎名さん自身が言ったことでも、わたし、耐えられません」

「あなたはわたしのことが本当に好きなのね」

「? 当たり前じゃないですか。なに言ってるんですか」

 こんな深いところの話、クラスの連中に聞かれるのはちょっと癪だけど、まあジャリはジャリだ。その気になればなにも感じずにわたしたちは二人だけの世界に入ることができる。そのくらい、わたしたちは通じ合えているはずだ。

 ところがどうだ。今の椎名さんは何かおかしい。

「山本くんはね」

 お願いです。そんな名前をあなたが口にしないでください。椎名さんはわたしだけを見ていてくれればいいんです。

「ああ見えて、しっかりした人なのよ。すごくバランスがいいの。本当の意味で、自分を持っている」

 それは……わたしよりもですか? 山本の人間性が、わたしよりも優れているって言うんですか?

 もちろん答えはNOに決まっている……と分かっているのに、わたしはどうしてもそれだけは聞くことが出来なかった。一体わたしはなにを恐れているのか? 分からない。もしかしたら、椎名さんはわたしよりも山本の方を評価しているのだろうか……そんな訳はない。絶対ない。それは分かっているのだけれど、どうしてもわたしはそれが聞けなかった。

 いや、椎名さんに「どっちが優れてます?」なんて人をジャッジさせるような質問をすること自体が失礼だし、そんな答えにくいことを聞くようでは気遣いが足りないのだ。

 だから、帰りは山本ではなくわたしと一緒に帰りませんか、とも聞きかなかった。聞きたいのはやまやまだったけど。

 何を考えているのか理解できないけれど、椎名さん本人がそうしたいというのだから、仕方がない。

 だが山本は許せない。

 あんなつまらない人間のくせに椎名さんに貴重な時間を割かせていることが許せない。そのうえ、そんな身に余る暁幸を受けたなら泣いて感謝してしかるべきなのに、頭が腐っているのだろうか、平気な顔をしている。調子に乗りすぎだ。

 わたしは昼休みの間中、後頭部に穴を開けてしまいそうなほど、山本をずっと睨んでいた。



<山本高次 2>

 椎名さんが欠席した。

 その日のクラス中の落胆ぶりといったらない。ぼくだってとてもがっかりした。風邪で高熱を出して休んでいるという話だった。風邪なら仕方がないけど、クラスの中には彼女に会えないことに露骨に不満を示すようなわがままな人間もいた。あとはみんな、椎名さんのことを心配していた。

 ぼくは昨日のことがあったから、まさかぼくがあんな態度を取ったことが原因で、精神的にショックを受けて休んだんじゃ……などと考えていたので、みんなとは違う意味で心配の種を抱えていた。どちらにしろ今日は、椎名さんはいない訳だから一人で帰ることになるな……と思っていると、放課後に、椎名さん愛好の筆頭である岬さんが、友達の何人かと、椎名さんのお見舞いに行こう、などと話していた。

 見舞い。つまりそれは、椎名さんの自宅にお邪魔することだ。クラス中が色めき立った。私も行きたい、俺も行きたい、などと岬さんに詰め寄る人が結構いた。ぼくも、椎名さんのことが心配だったから、一緒に行きたいと言いかけた。みんなの前でなら椎名さんも、ぼくに対して変なことを言ったりはしないだろうし。

「あまり多いと、逆に向こうに迷惑になるでしょ。それに、女子の部屋に男子があがり込むのもちょっと問題だし。悪いけど、お見舞いは少人数だけでささやかにやるわ」

 岬さんはそう言って、自分と友達二人だけで椎名さんのお見舞いに行くと言った。



<岬仄香 2>

 何なのこいつら。椎名さんの家に行けるチャンスだからって、お見舞いについてこようとするなんて。気持ち悪いったらない。

 くそ。こいつら全員死んでくれないかな今すぐに。

 どいつもこいつも椎名さんの家に上がる資格があると思っているのか。いつも一緒にいる連れはまあ、特別に同行を許可してやったけど。本来ならお見舞いなんて、わたし一人で十分だろう。



つづく